【TNLF】『杉原千畝の決断』:白石仁章さんトークショー

「杉原さんは凄い人です!」

tiune011990年、「六千人の命のビザ」(杉原幸子夫人)が刊行、92年それがドラマ化され、多くの人が彼のことを知ることとなる。94年に『シンドラーのリスト』がアカデミー賞を受賞、97年には『ビザと美徳』が第70回アカデミー賞短編実写部門賞受賞。その度に杉浦千畝の名は、マスコミによって広く伝えられ、日本人の誰もが知ることとなった。実に50年振りにその功績が陽の目を見たのである。その時、杉原千畝はすでに亡くなっていた。(86年没)。日本政府による公式の名誉回復がなされるのは、やっと2000年になってからである。
この作品は、その前年99年にアメリカで制作されたドキュメンタリー、PBS(公共放送ネットワーク)で放送されたものである。そのため、形式としては映画というより、テレビ・ドキュメンタリーの手法が取られている。杉原千畝の生誕から、リトアニアでの出来事、その後の人生まで丹念に取材した力作だ。本作は、彼の行いを「武士道」の精神に求めているあたりが、アメリカ的と言えるだろうか。



 13年2月10日、上映後のトークショーが行われた。ゲストは、杉原千畝研究をライフワークとしている白石仁章(外務省外交史料館)さん。外交官としての杉原千畝を、外交資料から読み解いた興味深い話であった。

司会 「白石さんが杉原千畝に興味をもたれたのは、『六千人の命のビザ』を読んで感銘を受けたことからということなんですが、それから20年に渡って研究を続けられてきた原動力っていうのは何ですか」

白石さん白石 「それは、多くの素晴らしい出会いや素晴らしい経験をさせていただいたということです。 例えば、今日この映画にも出てこられていた故杉原弘樹さん(千畝長男)、彼の奥さんの美智さん、娘さんのまどかさん(千畝孫)、などご遺族とも親しくさせていただいていること。それから先週二つも嬉しいことがあったのです。一つは、私の勤めている外交資料館に杉原さんの記念プレート、杉原さんの展示コーナーがあるのですけれども、そこのコーナーを熱心に見ている方から質問があるというので、行ったところ聴覚障害のある方でした。筆談しているのがもどかしくなったのでしょう。最後に立派な方だったと書いたあとに、ビザを指して、手が痛くなっても書いている様子をジェスチャーして、感銘を受けたことを訴えてこられたのです。二人で言葉を超えたところでコミュニケーションが取れたということが、とても嬉しかったです。それから、リトアニアには、杉原さんへの興味から日本に興味を持つ学生さんたちが「橋」というグループを作っているのですけれども、そこのグループの学生さんが、外交資料館に訪ねてきてくれまして、このグループは160人に膨れ上がってきているというのですよ。小さい国でありながらそこまで日本に興味を、持ってくれている。これは素晴らしいことだなと思いました」

司会 「映画の最初のほうで杉原さんがロシア語を学ばれたということが出てきましたけれども、それがちょっと運命的なものだったのですよね。」

白石 「難関である外務省の留学試験に合格して呼び出されたところ、その年たまたま希望する語学に偏りがあったので、調整しないといけないということがあったのです。中国語とロシア語はひとりも希望者がいないというのですよ。そこで杉原さん、人間というのは美しいものを好むもの。ペンで横書きするほうが美しいのではないかということで、ロシア語を選ばれたというのです。後にハルビンでロシアというのは日本外交にとって重要だということで、猛勉強されて、優秀だと言われていた5人の中で、彼は2番目にランクされているのですよ。」

司会 「ロシア語に堪能になられて満州で活躍された後、一旦日本に帰って、今度はドイツとソ連の関係を探るためにモスクワに派遣されるのですけれども、ソ連から入国を拒否される。それのきっかけになったのが、映画に出てきますが、満州時代にソ連から北満鉄道を買収する、その際に大活躍されて、それで忌避されるということがあったのですよね」

白石 「帝政ロシアの時代にロシアと中国が共同で、満洲に大きくT字型に鉄道を作りました。北満鉄道は、その内の横棒部分を指します。Tの字の縦棒部分は、日露戦争で日本が勝った時に譲られて、南満洲鉄道いわゆる満鉄になります。その後も北満鉄道のロシアと中国協同経営というのは、崩れなかったのですが、満洲事変で満州国ができた後、そこにソ連の権益があったとしても、ソ連自体がそれをうまくコントロールできないというので、満洲国が買収することになるんです。ソ連は最初6億5000万円をふっかけてきたのですよ。ところが、当時満洲外交部に移籍していた杉原さんが色々な情報を取り寄せたところ、ソ連が貨車を次々引き上げていることがわかり、最終的な金額が1億4000万円になるんですよね。その交渉時、極東部長だったカズロフスキーが、杉原さんの入国に対してすごく厳しかった。そして外務省に残っている記録によりますと、外交当局だけではなくて、色々な省庁が杉原さんの入国に反対していた。きっと鉄道を思ったよりやすい値段にさせられた鉄道関係の省や、のちのKGBになっていくような組織などからも警戒されたのではないかと思います。それくらい杉原さんというのは優秀ゆえにソ連から恐れられた人物だったというわけですね」

司会 「それを諜報の天才と白石さんは表現されているのですね。我々日本人としては、ユダヤ人迫害というと、ナチスだけが迫害していたというイメージがあるのですが、ナチスだけでなく、ソ連も反ユダヤ感情が強い国だった。映画の中のエピソードでリトアニアのソリー・ガノーフさんという方が出てこられたのですが、その辺からもそういうところが読み取れるのですね」

白石さん2白石 「ハヌカのパーティー(ユダヤ人の宗教行事)に杉原さんが行ったというエピソードですけれどもね。この時のパーティーの後で、ソリー君のお父さんが、リトアニアでの事業を整理して、アメリカへの移住を考えているって言うのですよ。そうしたら杉原さんは、そんな事業なんかどうでもいいから早く行きなさいって言っているのです。この時ドイツはポーランドを分割した後はなりを潜めていて、いわゆる奇妙な平和と言われていた時期、他方ソ連は、フィンランドに攻め込んで暴れていた時期ですので、ソ連通の杉原さんとしては、やがてリトアニアも危険になるということが、読めたんですね。

それからソリー少年の家には、ローゼンブラットさんというポーランドから逃げてきていたユダヤ人の方がいて、杉原さんは、突然彼が日本のビザをくださいと言った時には、日本のビザの規則では、十分な旅費を持っていて、行き先の国家が確定していないと、発行できないと断っているのです。しかし、ソ連がリトアニアを併合した時には、ソリー君の家族も含めてローゼンブラットさんにもビザを出してあげているのですね。杉原さんのビザのリストを見ますと、ローゼンブラットという名前が初めのほうに二人あるんですよ。彼はワルシャワで奥さんと上の娘さんを亡くされて、下の娘さんと命からがら逃げてきた人なんです。おそらくこれがローゼンブラットさん親娘なんだろうな。無事に生き延びていてくれたらいいなと、私はリストを見る度に思うのです」

司会 「1940年8月の頭から大体9月の前半くらいまで1ヶ月間ずっと、杉原さんはビザを発給しているのですが、その間ずっと外務省からは、止めるようにと再三言われていた。それでもなんとか1ヶ月以上引っ張った、それは杉原さんがアリバイ工作をしたからだと白石さんは本の中で書かれているのですが」

白石 「先ほども言ったようにビザ発給の規則では、難民になる危険性がある人にはビザを出してはいけないということだったのですが、彼は、そういう人たちにもどんどん発給していて、その頃彼らが日本に到着し始めていたのです。で、今後は厳密に守るようにという外務省からの電報が8月16日に来るのです。その電報に対して普通だったらすぐに返事を出さなくてはならないのですが、半月返事を出さないで、9月になってから返事を出すのです。彼らの事情は同情に値するので、ビザの規則を拡大解釈してほしいと。当然、本省からは、それは絶対慎むようにと、すぐに電報が戻ってくるのです。でもその時、9月には杉原さん領事館を閉鎖しているのですよね。ですから、これはどう言う意味かというと、私の解釈ですけれども、ビザの発給の解釈を巡って本省との間に交渉が続いていたという事実を作る一方で、その間ビザをどんどん出していた。その間に出たビザは、交渉途中だったから有効だという理屈なんですね。折角出したビザが無効にならないでほしいという杉原さんの願いが込められた、最大の必死の努力だったのではないかと思うのです。でそれをアリバイ工作という表現を使ったわけです」

司会 「それはとても腑に落ちる話だと思います。その中でまた新しい事実が出てきたのですよね」

白石 「この本(「諜報の天才 杉原千畝」)を書いてから、私が今まで知らなかった電報を1本見つけちゃったのです。7月30日、ビザをもうバンバン出していた時の電報です。当時、バルト三国がソ連に併合されまして、それによってドイツとソ連との関係がどうなるか、色々憶測されていました。ドイツがきっと黙っちゃいないだろう、きっとソ連とドイツの関係がまた更に悪化して、ドイツは日本と仲良くなるんじゃないかと、日本に都合のいい楽観的な観測も多かったのです。ところがそう甘いものではないと、杉原さんは電報で送っているのですよね。ビザを出しつつこういう情報をきちんと掴んで情報を送っている。凄い人だなと益々思いました」

司会 「映画にも出てくるのですが、その後の赴任先のプラハでもビザを発給していたというのは、本当に驚きですよね。身体を休めるためのホテルでもビザを発給していた」

白石 「ホテルメトロポリスですね。公印は送ってしまった後だったので、もうビザは出せなかったのですけれども、渡航証明書というもっと簡単な書類を盛んにホテルで出していたのですよね。領事館を閉鎖した時に、こういうホテルにいるからと、わざわざ張り紙を出していたんで、見た人がそこまでどんどん来ちゃったのですよ。そこで最後は、ドラマなんかでよくありますけれども、カウナス駅で、ぎりぎりまで書いていたということですね。そして、私が驚いたのは、それだけのことをやって、プラハでも、次の赴任地ケーニヒスベルクの総領事館にいく辞令が出るまで、リスト上70通くらいビザを出しているのですよね。もしかしたらこのリスト外の人もいるかもしれません。…それから、アメリカの国際学者でジョン・ステシンジャーという人がいて、そのステシンジャーさんがプラハで杉原さんからビザを貰ったというのを聞いたので、私がリストを確認したらそのご両親らしき二人を見つけました。そこで思い切って彼に手紙を出してみたら、まさに私の両親だと、杉原がいたから私たちは助かったんだという手紙を頂きました。本当に杉原さんの活躍というのは、リトアニアだけには収まらない。本当にすごい人だなって、何回言っても足りないくらいの人だと思います」



▼『杉浦千畝の決断』作品情報
原題:Sugihara:Conspiracy of Kindness
監督:ロバート・カーク
制作:1999年/アメリカ/103分
▼「諜報の天才 杉原千畝」白石仁章著



☆関連情報

「トーキョーノーザンライツフェスティバル2013 ~北欧の美しき光(映画)に魅せられる1週間~」



▼「トーキョーノーザンライツフェスティバル2013」概要
期間:2013年2月9日(土)〜2月15日(金)
場所:渋谷ユーロスペース
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公式サイト:トーキョーノーザンライツフェスティバル 2013