【TNLF】北欧映画・古典への招待PART2
2013年1月28日、TNLF2013 記念シンポジウム「北欧映画・古典への招待」がスウェーデン大使館オーディトリアムにて開催された。第二部は、シンポジウム。パネリストとして登壇したのは、早稲田大学文学学術院教授で映画史家の小松弘氏、ストックホルム出身で映画史家のヨハン・ノルドストロム氏。司会進行は、ドキュメンタリーカルチャー雑誌「NEONEO」の編集主幹で映画批評家の萩野亮氏が担当した。小松弘氏は、「北欧映画完全ガイド」の監修をし、「ベルイマン」などの著作もあり、日本では北欧映画研究の第一人者である。北欧映画の注目度は以前と比べて高くなったとはいえ、まだまだ日本では、ガイドとなる本も少なく未知の部分も多い世界。それだけに、興味深いシンポジウムとなった。その模様の一部をお伝えする。
萩野氏
「小松先生、ヨハン先生、講演のほうありがとうございました。とても興味深いお話を聴かせていただきました。小松先生のお話では、スウェーデン映画がデンマーク映画の模倣をしていたということでしたが、そのの中にクリステンセンの映画も含まれているのでしょうか」
小松氏
「クリステンセンは自分の映画を作るために自分で会社を設立します。例えば、最初の作品『密書』で言えば、プロデューサー監督脚本主演全部自身がやるという点でかなり特異な監督と言えます。1910年代のデンマーク映画の中では、クリステンセン監督はちょっと異質なのです。後に言うところの作家主義的なの部分があるのですね。これに対して他の監督たちは映画会社単位で製作しています。会社にはいくつかのスタイルがあり、例えばノルディスク社はメロドラマを会社の特徴としていて、それはノルディスク調と通常言われています。そういったものを模倣していったのと同時に、デンマークで売れている女優たちと同じような魅力的な女優を早く用いようと努めました。」
萩野氏
「クリステンセンが映画最初期にしてすでに作家性を持っていた特異な監督というお話があったのですが、非常に緊密な映画文体、照明設計がなされていて非常に驚くのですが、クリステンセンはこれらをどのようにして身につけたのでしょうか。それまでのデンマークの絵画史なんかから影響を受けたと考えられるのですか」
ヨハン氏
「彼がどこから影響をもらったのか。彼は、舞台の経験、オペラの世界との関わりがありました。それと芸術の世界に入る前に医学の勉強をしており学者的な知識のあった人です。光の使い方については科学者的なものを感じます。新しい可能性のあるものを待っていてすぐそれを使いました。これは想像でしかないですが、舞台の経験、オペラの世界からの影響はあると思います」
小松氏
「デンマーク絵画とクリステンセンとの関係はほとんどないと思います。映画に関しては、グリフィスですね。『密書』の最後は、グリフィス的なラスト・ミニッツ・レスキューがそのまま使われている。そういう部分はあるが、誰かを真似たっていうよりはオリジナリティっていうことを強調したほうが面白いと思うのですね。あのドライエル(カール・テオドール・ドライエル…デンマーク監督、後に独仏で映画を撮る)ですらクリステンセンのオリジナリティに感服しているほどです。同時代に公開された外国映画、あるいはデンマーク映画の中でもアウグスト・ブロム監督の作品などは独特なものがあるので、そうしたものも学んでいたとは思うのですね。さらに、彼は科学的、学術的関心が豊富です。『魔女』を用意するにあたって彼は1918年からリサーチを始めているのです。同時に彼はシャンパンの輸入業者でもあるのです。彼の映画製作はとても厳しくて夜中までづくことがあるのですね。俳優たちがクタクタに疲れると、シャンパンを出してみんなで乾杯してもうちょっと頑張ろうなんてことをしたり、そういったお茶目なところもある監督だったです」
萩野氏
「クリステンセン監督は、アメリカから戻ってきて最後は映画館主、映画館のオヤジになったと聞いているのですけれども、デンマークでは映画館の興行がライセンス制になっているということなのですが、そのへんについてお話を聞いてみたいのですが」
小松氏
「ライセンス制に関しましては、国家がライセンスを発行して映画館の経営ができるということなのです。ドライエルが経済的に困っていたときに国が彼を救ったのですね。彼は妥協しない監督ですので、しかも彼の映画はそんなに儲かる映画ではないので、一時彼の映画を実現することが不可能になり貧しくなった時がありました。そんな時、国家が彼に映画館の経営を任せるのですね。それによって彼は救われるわけです。それより前40年代にはクリステンセンがそんな状態に陥りました。彼の映画館というのは少し郊外の映画館ではありましたけれど、それで映画館主になって余生を送ったということになるわけです。確かにクリステンセンのサウンド版の映画はあまり評判が良くなかったのですが、今作家ということで見直すと、結構面白いところがあって、クリステンセンらしいところを見つけられます。決して最後はどうしようもない映画を作ったとは思わないでほしいです。」
萩野氏
「スウェーデンではどういう形の興行になっているのですか」
ヨハン氏
「えーとスウェーデンは、政府は支配していないですよね。自由に映画館を作ることができる。スウェーデンが世界で初めて映画館を作ったという記録も残っています。」
萩野氏
「最初は模倣で始まったスウェーデン映画が、デンマーク以外の作家の小説、戯曲を映画化することからスウェーデンがスウェーデン的なテーマを発見していった、ということを本で読んだのですが、一方凋落していくデンマーク映画の1910年代後半からの動きはどんな風になっていくのでしょうか」
小松氏
「確かにスウェーデン映画は、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドの作家の小説やお芝居を映画化することが結構多いのですね。その中でもセルマ・ラーゲルレーヴは絶対に落とせない。彼女自身も映画化には協力したりしています。1910年代後半からデンマークの凋落は始まるのですが、映画脚本だけは、結構一所懸命書いていて色々なところに売っている。10年代終から20年代にかけてデンマークではディケンズの映画化が結構流行っていて、超大作として作られている。それが特徴的といえば特徴ですね。」
ヨハン氏
「小松先生に質問したいのですけれど、そう考えると面白いですね。スウェーデンでセルマ・ラーゲルレーヴを作るのは映画の評判の高まりですよね。映画というのは、あまり文化的に見られなかった。高名な作家の作品を映画化して映画を芸術として認められるようにしようという動きがあった。デンマークの場合、ディケンズを作るのはそういった何か考えがありましたか」
小松氏
「1910年代の初め、なぜデンマーク映画が盛んだったかというと、海外に売れたからなのですね。凋落したということは海外で売れなくなってしまったということなのです。海外で売るにはディケンズというのはどこででも知られているわけだから、当然それはそうした戦略としてあったと思われます。セルマ・ラーゲルレーヴの作品というのは、日本でもすでに戦前、翻訳などもありますけれども、やはり映画を通して彼女の名前が知られたということもあるかもしれませんね。もちろんノーヴェル文学賞を取っていて高名ではあったけれども、実際に彼女の小説が翻訳された時に一体どれくらい極東の日本で浸透したかっていうと、例えば岩波文庫でもっとも売れなかった小説というのが、ラーゲルレーヴの『エルサレム』なんですね。彼女自身も映画化に協力したというのは、もちろんギャランティということもあったのですけれども、映画を通して海外でも理解されるということもあったと思うのですね」
会場からの質問
「当時から、外国からみて北欧という概念はありましたか」
小松氏
「文学でも北欧文学という概念はすで大正時代からありました。映画雑誌では北欧映画とは、デンマーク、スウェーデン映画を指していました。同時に南欧という言い方もあるのですね。大正時代南欧といえば、ほとんどイタリア映画を指していました。」
会場からの質問
「どういうルートで北欧映画っていうのが入ってきたのですか」
小松氏
「『密書』はシールド・オーダーというタイトルで発売されました。このタイトルはロンドン発売プリンとのタイトルなんですね。英語字幕タイトルで入ってきていたのです。ロンドンには当時映画の国際マーケットがあったので、そこで日本人のバイヤーが買って日本に入って来たのです。多くの場合がロンドン経由で入ってきていたと思います。つまり中間字幕がすべて英語になっています。」
約2時間のシンポジウムは、興味が尽きず、本当に楽しい時間であった。まだまだ話を聴きたい。そんな余韻を残して会は終了した。そんな「トーキョーノーザンライツフェスティバル2013」の本番も、いよいよ2013年2月9日(土)から。興味をお持ちになられた方は、ぜひ足を運んで見てください。
☆関連情報
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「トーキョーノーザンライツフェスティバル2013 ~北欧の美しき光(映画)に魅せられる1週間~」
☆2013年2月9日(土)から2月15日(金) に渋谷のユーロスペースにてJAPAN PREMERE5本を含む14作品上映!今年も、内容盛りだくさん、魅力いっぱいの「トーキョーノーザンライツフェスティバル2013」スケジュールの詳細、イベント、最新ニュースについては、下記公式サイトでぜひご確認ください。
公式サイト::トーキョーノーザンライツフェスティバル 2013