【TIFF】もうひとりの息子
(第25回東京国際映画祭コンペティション部門)
兵役のため健康診断をしてみたら、血液型が両親と違っていた。出生の際の手違いからイスラエル人と、パレスチナ人の青年が入れ替わっていたことが明らかになる。この二人の青年を分断しているのは、国、社会、民族の血である。車で走っていると、どこまでも続く高い壁が「国」としての分断をことさら感じさせる。「パレスチナの人々は、一生海を見ることができないだろう」何気ない一言が胸を締め付ける。
家族同士の初めての出会いは、イスラエルの家で実現する。それぞれの反応が興味深い。ショックを受けながらも、自分が産んだ子を一目でもいいから間近で見てみたいと願うのは、やはり母親たちである。会ってみれば、抱きしめたい気持ちに駆られる。一方父親たちは、まずその事実をなかったことにしてしまおうと考える。この厄介事は、家を守りたい気持ちの強い彼らにとっては、土台を揺るがしかねないことだからだ。そして、いざ対面してみれば、ちょっとした一言から喧嘩になってしまう。長年社会生活を営む中で培われてきた感情や考えが、どうしても先に立ってしまう。パレスチナの青年の兄は、この場に姿さえ見せていない。家では仲良しだった弟を邪険にしている。「ユダヤ人の血が流れるお前は弟なんかじゃない」と。ユダヤ人=敵。それだけである。またそういう考えでなければ、友人たちからは仲間外れにされてしまうことだろう。そうした意味でそれぞれの反応は、社会との関わり方に大きな関係があるようだ。それが証拠に一番末の妹たちは、出会ってすぐに仲良しになり、「新しい兄ができた」と素直に喜んでいる。すなわち個人の行動や心理は社会の反映でもあり、それが時に人を思考停止状態に貶めるのである。民族の対立はそうしたことから生まれてくるのではなかろうか。
しかし、一方で教会のラビは、君の血はユダヤ人ではないとイスラエルの青年を拒絶する。だから改めて改宗しなければならないと。社会が民族を作るのではなく、血が民族を作るという考え方だ。本当にそうだろうか。パレスチナの青年がイスラエルに入ってバイトをしていても誰も彼がパレスチナから来たとは思わない。反対にイスラエルの青年がパレスチナに行って道を聞けば、誰もが親切にしてくれる。要するに彼らは、どちらの民族か外見では区別がつかないのである。そもそもイスラエルが建国される前のパレスチナには、ユダヤ教に改宗したアラブ人、イスラム教に改宗したユダヤ人がいて、それぞれが共存し混血してきた歴史がある。民族とはそんなにも心元ないものであり、争いの元凶は血ではない。むしろ争いを血の責にしているだけなのである。
そうしたわけで、この作品では、希望を社会の最小単位、家族に託している。育った環境が違っても、息子は、確かに親である自分の血をひき自分と同じ才能を持っている。その事実が家族の心を溶かしていく。ふたりを通じて、それぞれがお互いを理解しはじめていくのだ。そんな家族の中でもとりわけ大きな希望は、次代を担うイスラエルで育ったパレスチナ人の青年、パレスチナで育ったユダヤ人の青年、そして育ったところ以外知らなかったパレスチナ人の兄である。お互いを気遣う気持ちが強くなったとき、彼らは社会の価値観から開放されるのである。憎しみから開放されるのである。そこに未来への希望があるのではないか。そんなことを信じさせる力を持った作品だ。
▼作品情報▼
原題:Le fils de l’Autre
監督:ロレーヌ・レヴィ
出演:エマニュエル・ドゥヴォス、パスカル・エルベ、ジュール・シトリュク
製作:2012年/フランス/105分
© Rapsodie Production –Cite Films
▼第25回東京国際映画祭開催概要▼
開催期間:10月20日(土)~10月28日(日)9日間
会場:六本木ヒルズ(港区)ほか
TIFF公式サイト:http://2012.tiff-jp.net/ja/