『桃(タオ)さんのしあわせ』時の移ろいを惜しみながら、前に進む

 私は幸せだった。最期の最期にそう思える人生を送りたくない人なんているだろうか?『桃(タオ)さんのしあわせ』は、多くのことは望まない、ただ大切な人を大切に、一日一日を有難く生きる幸せを教えてくれる1本。歌手・女優として活躍してきたベテランスター、ディニー・イップが本作でヴェネチア国際映画祭主演女優賞に輝いた。

 身寄りのない桃(タオ)さん(ディニー・イップ)は13歳でメイドとして預けられ、その後60年もの間、4代にわたって梁家に仕え続けている。一家は米国に移住してしまったが、映画プロデューサーとして香港と中国を行き来するロジャー(アンディ・ラウ)だけが残った。桃さんは毎日市場に出かけては新鮮な食材を吟味し、ロジャーの好みと栄養バランスを考えた料理を彼一人のために作る。生まれた時から世話をされているロジャーにとっては、桃さんが料理するのも、デザートを運ぶのも、家の掃除をするのもごくごく当たり前のことで、感謝のことば一つない。そんな桃さんがある日突然、脳卒中で倒れた。手足が麻痺する中風が残るといわれた桃さんは、仕事ができないのなら辞める、老人ホームに入るとロジャーに申し出る……。

 小さな面積には多すぎる人口が密集する香港。そのイメージから察せられるように、ここの老人ホームもまた、アパートのような狭い建物に高齢者がすし詰めにされている状態で、決して快適な場所ではない。衛生状態も良いとはいえず、ひとりで食事もとれない高齢者たちでいつも雑然としている。これまで梁家を塵ひとつ残さず磨き上げ、気丈に働いてきた桃さんにとっては相当に堪える環境だ。それでも桃さんは、“プロフェッショナル”に主人であるロジャーの世話になることを拒み、時々入居者の世話をやきながらホームでの生活を続ける。奉公一筋60年。これじゃ桃さんが報われない!と序盤は歯がゆくて仕方がないのだが、彼女の存在の大きさに気付いたロジャーが多忙を縫って献身的に訪ねてくるあたりから、俄然、桃さんの生きてきた歳月が輝きを放って立ち上がってくるのだ。

 ちょっとした思い出話や、桃さんがこしらえてきた四季折々の料理の名前……何気ない会話で2人が親子同様、いやそれ以上に濃い時間を共にしてきたとじんわり伝える演出が上手い。どうやら桃さんに残された時間はそう長くないらしい。そう思い至ったとき、2人の胸に去来した風景は何だったのか。ホームの入居者から「息子さん?」と訊かれ、「はい」と答えるロジャーと、その言葉に嬉しそうに顔を綻ばせる桃さん。ロジャーと外出するため入念に身支度をしながら、少女のように鏡をのぞき込む桃さん。一緒に過ごす間にも仕事の電話にせわしなく対応するロジャーを頼もしそうに見つめる桃さん。それらの表情がすべて、人のため、真面目に生きてきた桃さんの最期の日々にやってきた“しあわせ”を語っている。“こんなハンサムで優しい人が息子だって言ってくれたら嬉しいよねぇ、桃さん!”と思わずスクリーンに語りかけたくなるほど、ロジャーを演じるアンディ・ラウもはまり役。問答無用のアジアの大スターだが、本作ではスター・オーラを封印し、いい具合に脂の抜けた50歳という歳相応の男性を好演している。

 そんなアンディ演じる映画プロデューサー・ロジャーは、本作のプロデューサーであり、アン・ホイ監督の代表作『女人、四十。』(95)の製作にも参加したロジャー・リーがモデルである。それゆえか、映画業界の内輪話は結構リアルだ。ロジャーが中国大陸と香港を行き来しているのも、中国資本なしでは立ち行かなくなっている香港映画界の現状そのもの。ツイ・ハーク、サモ・ハンといった香港映画界のベテラン監督が本人役で登場し、資金繰りの難しさについて愚痴り合うなどの小ネタも随所に仕込まれている。一方で、映画の後半、ロジャーが桃さんを連れて行くプレミアで上映されるのは中国大陸の監督ニン・ハオの作品という設定も面白い(本人も登場)。『クレイジー・ストーン~翡翠狂騒曲~』(06)が本国で大ヒットし、商業性とクオリティを両立できる監督として活躍が期待されている若手だ。桃さんと過ごした時間を思い返すロジャーの姿に、香港映画界の変化を見つめるアン・ホイ監督の視点が込められているように思えてならない。

 桃さんの時間がわずかになってもなお、ロジャーは仕事で大陸に向かう。時代の移ろいを惜しみながらも、前に進んでいかなければならない香港映画の姿が重なった。


『桃(タオ)さんのしあわせ』
原題:桃姐
監督・製作:アン・ホイ(許鞍華)
製作・原作:ロジャー・リー(李恩霖)
出演:ディニー・イップ(葉徳嫻)、アンディ・ラウ(劉徳華)、チン・ハイルー(秦海璐)
配給:ツイン
2011年/中国・香港/119分
公式HP http://taosan.net/
10月13日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開
(c) Bona Entertainment Co. Ltd.,

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