【Filmex】ヒューマン・リソース(特別招待作品)

強い者しか生き残れない社会にて

会社で人事担当として働くフレンが会社に向かう途中、自動車のラジオからは環境汚染や、洪水のニュースが流れている。つい2、3日前にもタイの南部で大洪水が発生し、9県で、住宅など12万7000棟以上が被災した、というニュースが流れてきていた。地球温暖化の中で異常気象が続くのは、もはや世界のどこもという感じだが、苦しむのはいつでも貧しい人たちである。「どうせ政府は水が引けばそれで終わりで、後は何にもしてはくれないんだ」劇中ではそんなセリフも聞かれた。成功するためのセミナーでは、講師が「成功とは何か私にもわからないのです」と言う。不確実性の時代、今の暮らしがずっと続くのか否か、それは成功している者にとっても不透明なところがあるのである。妊娠したフレンは、果たしてこのような社会でちゃんとした子供を育てられるのか、劇中ずっと思い悩むのだ。悩みの深さは、前の場面の出来事の音が次の場面でも続いていくことによって表現されており、それが観客にも重くのしかかっていく。

フレンと夫は同じ会社で働いている。夫は商談で新しい顧客を獲得することに夢中であるのに対して、彼女が人事担当社員で、会社の悪い面を目にすることが多い立場にあるということが、2人のひとつの溝になっている。夫自身は、そのことに全く気が付いていない。バンコクの中心のビルにある会社は、一見すると、広いテラスがありオフィスも綺麗で見晴らしも良く、環境にも恵まれているように見える。しかしながら、新入社員の面接を見ると、低賃金で土曜日も出勤となる長時間労働の会社であることがわかる。それでも募集をすれば、応募者がたくさん集まってくるのだから、就職も大変だ。会社では上司のパワハラが問題になっているのだが、ここではそれを解消するシステムもなく、フレンはそれを注意できる立場にありながら、声の大きいその男に何も言うことができない。強い者が大手を振り、女性の事務員や、弱い立場の者は泣き寝入りするしかない現実がある。女性が生きにくい社会だ。

会社の帰り道、一方通行の細い道路に入ると、いつもバイクが逆走行してくる。夫は、正義感から車を端に寄せることを断固拒否する。そんな中、執拗にクラクションを鳴らし、罵声を浴びせてくる若い男に遭遇する。ガラスやドアを叩く暴力的な振る舞いに2人は動揺する。通り過ぎてホッとしていると、わざわざ追いかけてきて、車を叩いて怒鳴り散らすさまは、ちょっと異様である。いかにも低所得者という身なりの男であるが、日ごろの不満が、爆発したかのような感がある。ニュースでは物騒な殺人事件が頻繁に報じられていて、社会不安が充満していることがわかる。実際、タイでは、貧富の格差が大きいことが社会問題となっている。「クレディ・スイス」が2018年に出した推計によると、タイの富裕層における上位1%が所有する資産が、タイ全体の資産において約67%を占めていて、これは、調査対象となった40カ国のうちトップクラスなのだという。(日本は18・6%)こうした背景が、人々に不満をもたらしているのではないだろうか。
 
一方持っている者たちは、自分たちだけはこのような社会から逃れて安心して暮らそうと、必死になっている。自動車の中にいる彼らと外にいるバイクの男は、その関係性を象徴している。夫は生まれてくる子供のためにと、お金の高い、しかし安全で教育がしっかりしている幼稚園の予約をしにいく。その世界に居さえすれば、将来も心配なく暮らせるということを信じて。いいかえれば、これは、もう生まれる前から低所得者層の子供たちとは切り離して、自分たちの階層を維持していこうという意志の現れである。夫は夫で、この格差社会の中で生き残っていくため、大きなストレスを抱えながらも、何とか安心を得ようとした結果なのではある。しかし、フレンは大きな不安を覚える。果たしてそんな環境で子供を育てて、彼女が理想としている、人の痛みの分かる大人になれるのだろうかと。夫はバイクの男との2度目の遭遇の時、近寄ってきた男をバイクごと跳ね飛ばしてしまう。そのうえ、取引先の警察と掛け合い、その罪を帳消しにしてもらう。今までの勢いはどこへやら、しょげかえり警察を出ていくバイクの男に対して、俺に任せて置けば、なんの心配もないと得意気な夫。フレンは益々子供を産むことへの不安を募らせていく。

この作品は、貧富の格差の問題、人々に不満がたまっている現実を、低所得者層ではなく、都会の中流層の夫婦を描くことで捉えている。格差の固定化の理由が、そこから見えてくるからだ。映画では描かれていないが、タイでナショナリズムが高まり、急速に右傾化していることも、このこととは無関係ではないように思える。人々の不満が高まり、政治的に不安定な状況にあって、ナショナリズムの高まりは、国民を一本化していき、自分たちの安定につながるからだ。これらは、タイだけではなく、世界中のどこでも起こっていることであり、この作品は、地域の問題に留まらない問題提起になっていると感じた。


第26回 東京フィルメックス 開催概要

会期:2025年11月21日(金)〜 11月30日(日) (全10日間)
会場:有楽町朝日ホール ヒューマントラストシネマ有楽町
プレイベント:第26回東京フィルメックス 「香港ニューウェーブの先駆者たち:M+ Restored セレクション」
会期:2025年11月14日(金)- 11月18日(火)
会場:ヒューマントラストシネマ有楽町
主催:特定非営利活動法人東京フィルメックス
共催:朝日新聞社

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