アダムズ・アップル ： 映画と。

『アダムズ・アップル』というタイトルからして、これがキリスト教と密接に関わる話というのは、すぐにわかる。更生のため、刑務所から教会に送られてきたアダム(ウルリッヒ・トムセン)という男は、来るなりいきなりリンゴを齧り、アップルケーキを作ることをここでの目標とする。他の登場人物も、牧師イヴァン(マッツ・ミケルセン)の名前の語源はヨハネだし、サラはアブラハムの妻の名前であること(高齢出産する)など、隅々まで計算されている。

　イヴァンは神を盲目的に信仰する牧師であるが、その中でも特にヨブ記に取り憑かれていることが、聖書が机から落ちる時、いつもヨブ記のところが開いてしまうことからわかる。彼が愛しているもうひとつのものは、ビージーズの往年のヒット曲として知られる♪愛はきらめきの中に、という曲である。「君の愛はどれくらい深いのだろう。僕は真に学ぶ必要がある。僕たちを傷つけた愚かな世界で、僕たちが生きていく理由を」君を神と置き換え、これは自分のための詩だという風に捉えているからこそ、この歌が好きなのだ。イヴァンとはそういう人。何でも都合のいいように、頭の中で物事をすり替えることができる人なのだ。自分の不幸な記憶を忘却するどころか、都合のいいように歪め、そのことで辛うじて生きている人物である。それ故に、刑務所から教会に送られてきた男たちが、ちっとも更生されていなくても、一向に気にしていないのである。

　グナーがオーブンを消し忘れ、そのことでアダムが火傷をしたことに対しては、グナーが悪いのではなく、神がアダムを試しているということになるのをみると、彼の考えはやはりヨブ記が基になっている。神とサタンが、ヨブの信仰心を試すため、彼にさまざまな苦難を与えるという物語である。幸福も苦難も神の恵みである。自分は神から愛されているから、それを受け入れるのだと、彼は考える。アダムにとっては、そんなことはどうでもいいことなのであるが、イヴァンはそんなことにはお構いなしである。「自分が望んでいるものを他者にも与えよ」自分がクッキーを食べたいと思えば、他人が欲していなくてもそれを与え、食べなければ、結局自分がみんな食べ、それで満足してしまう。「それについて議論をしよう」といつも言っている彼のそれは、問題をすり替えるための作業に近いのかもしれない。ヨブの物語は、彼自身はそうとは気が付いていないが、むしろ自分を正当化する手段にしているのに過ぎない。そういう意味ではとても弱い人である。

　イヴァンだけでなくここに登場する人物はみな何かに取り憑かれた弱い人たちである。ネオナチのアダムはヒットラーに、酒に溺れる元テニスプレイヤーのグナーは、過去の試合の判定に、アラブ人のカリドは復讐に、コルベア医師は科学に。誰もが何かにすがらなければ生きていけないかとでもいうように。その中でも、イヴァンとコルベア医師は対極にある。神と科学。不合理と合理性。アダムがこの間に入る。

　アダムはコルベア医師からイヴァンの秘密を聞き、嬉々としてひとつひとつそのベールを剥がしていく。なにしろ異質なものを排除することを信条とする、ネオナチの人間である。このことが、結果的には、合理性が不合理を排除していくことに繋がっていく。ネオナチというユートピアの中に生きていたアダムは、その過程を経て現実的な人間に変わっていく。しかしそれと同時に彼は、合理的な考えでは割り切れない、神の力が働いたとしか思えないような偶然や、自然のいたずらなど、不条理な出来事に遭遇することによって、次第に謙虚さを身に着けていく。それは、時に　人間の思いや希望を妨げ、あるいは思わぬ幸福をもたらす、人間よりももっと大きな力に対してのものである。アップルケーキを作りイヴァンに食べさせること。当初いい加減に立てたこの目標に、何かの救いを求めるような彼の行動は、そのことを何よりも示している。

　アダムにとって、リンゴとは人間性の象徴だったのではなかろうか。知識の木から取った実を食べることによって、エデンの園から追い立てられたアダムが地上の人となったように、彼はそのことによって、人間性を獲得するのである。すなわち奇跡を信じ、自分の考えに取り憑かれおかしな行動を取る不合理な生き物で、とても弱い存在ではあるが、慈悲の心を持ち、人と哀しみや喜びを分かち合える。その不完全さ、それが人間である。いつしか彼は、心がないコルベア医師に嫌悪感を覚え、イヴァンに対して優しい気持ちを抱くようになっていく。すなわちイヴァンが勝利し、コルベア医師は敗北する。このことは、現代的な科学や合理性ではなく、愚かさ、不合理さを抱える人間性のほうが勝利したことを意味している。りんごの木の奇跡、その「き」は希望の「希」という字にも置き換えることができるだろう。


※ 10 月19日より新宿シネマカリテほか全国順次公開